知れば知るほど奥が深い…名古屋トリビア話

「名古屋」という地名

「名古屋」という地名

image時の流れと共に読みや表記が変化してきた地名ですが、愛知には「名古屋」を含め、三文字の地名が多く残っています。
多くの地名が二文字なのは、諸国郡郷名著好字令という「漢字を二文字に揃えることで縁起を良くする『二字佳字』にせよ」という命令によるもの。
これに従わず、三文字のまま残っている「名古屋」の地名、実はちょっと珍しいものなんですよ!

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ナナちゃん人形

ナナちゃん人形

image名古屋駅近辺での待ち合わせ場所として有名な「ナナちゃん人形」。
これは昭和48年、「名鉄百貨店セブン館」という店舗の1周年を記念して制作されたシンボルで、名前は公募により「セブン館」にちなんだ「ナナちゃん」に決まりました。身長は6m10cm、体重600kgととても大きいナナちゃんですが、その体は頭と両足を天井と床に固定されていてとっても頑丈。今も季節や話題の作品にちなんだファッションショーを楽しませてくれる“名駅の顔”として活躍しています。

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日本初!地下鉄+地下街

日本初!地下鉄+地下街

今では珍しくない賑やかな地下街ですが、現在の形式に発展する元となったのは名古屋駅、現サンロードなのだとか。
元となったのは車、バス、市電、歩行者などが入り乱れた地上の交通状況を改善するために考案された、地下の連絡通路。その際、地下の暗く不衛生な印象を変えようと、通路の両側に店舗を並べて商店街としたのが始まりでした。
これと同時に地下鉄の建設も進められ、昭和三十二年に地下街が開業、八ヶ月後に名駅から栄までの地下鉄が開通したそうです。

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名古屋城のシャチホコ

名古屋城のシャチホコ

image名古屋といえば金のシャチホコ。この二匹は左右が非対称なのはご存知ですか?これは名古屋のシャチホコだけの特徴で、北側が雄、南側が雌として作られているからなんです。
雄は少し身体が大きく、雌はウロコが多いのが特徴なのだとか。
金メッキではなく、本当に金の板を打ちつけて作られていたシャチホコは、その価値からウロコを盗まれたり、財政難を乗り切るために改鋳されたりと苦難を経て、ついには昭和二十年に戦火で焼けてしまいました。金塊となってしまったシャチホコは、市民が見られるものとして市旗の竿頭、そして茶釜として作り直されることに。
この茶釜の名前を、「丸八文様鯱環付真形釜 (まるはちもんようしゃちかんつきしんなりがま)」といいます。現在、名古屋城の上には二代目シャチホコの夫婦が輝き、茶釜は天守閣などで期間を決めて展示されています。

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今も残る「納屋橋」の姿

今も残る「納屋橋」の姿

image現在の「納屋橋」は名古屋城築城の際、堀川に架けられた木造の橋が大正二年に今のアーチ橋に作りなおされたものです。
大正二年の工事が終わった後、近隣に店を構えていた「伊勢屋」が渡り初め式に参加したことから「納屋橋饅頭」と名乗るようになり、その名前も広く知られています。アーチ橋は細かな細工や高度な技術がふんだんに使われた立派なもので、昭和五十六年には建て直しが計画されましたが、市民の反対により今もその姿を残すことになりました。

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熱田神宮に祭られている神は?

熱田神宮に祭られている神は?

image日本武尊(やまとたけるのみこと)の妃、宮簀媛命(みやすひめのみこと)が草薙の剣を現在の熱田の地に祀ったことが熱田神宮のはじまりで、その祭神は熱田大神です。
あまりその名前を聞きなれない方もいると思いますが、この「熱田大神」は草薙の剣をご神体とする神様のことで、その神は天照大神であるとも、日本武尊であるともいわれています。
熱田神宮の最も奥まったところにある「一之御前神社(いちのみさきじんじゃ)」では熱田大神の「荒魂(あらみたま。神の霊魂の一面で、荒々しい力、勇ましさ、前進する力などを現す)」が祭られており、熱田神宮の中でも特に神聖な場所とされているのだとか。
織田信長が桶狭間の戦いの必勝祈願を成就させるなど、戦神としての逸話も持つ熱田大神。
負けられない勝負の前など、ぜひ心を鎮めて参拝してみては。

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喫茶文化の栄える街

喫茶文化の栄える街

image名古屋人は喫茶店が好き、とは広く知られたイメージですが、確かに名古屋では仕事の場でも、家族や友人とでも、出かけた先で「ちょっとお茶しよう」と手近な店に入るのはとても一般的なことです。昔から茶道が発達していた名古屋には、お茶を飲みながらお喋りするのが好きな人が多いのでしょう。
座り心地の良いソファに新聞、雑誌、漫画、穏やかな音楽など、つい長居したくなるつくりになっているお店も多く、一人でゆっくり休息するにも、仲間と歓談するにもちょうど良い場所なのです。
名古屋で朝、コーヒーを1杯頼んだらゆで卵やトーストがオマケでついてきた……という話も随分有名になりましたが、夕方や夜に頼んでも「モーニングサービス」がつくお店まであるのだとか。
この過剰ともいえる「モーニング」、ラッシュアワーを避けて早く出社するビジネスマンや、休日朝から出かけるファミリーの朝食として求められるうちに、数ある喫茶店が競争してサービスが向上していったという背景があるようです。コーヒーの回数券があるところも珍しくなく、1シート買うと1枚(1杯分)お得というのが一般的。これでコーヒーを頼んだら、ちょっと通な気分が味わえそうですね。

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日本最大の貸本屋「大惣」

日本最大の貸本屋「大惣」

imageまだ本が希少品だった江戸時代、庶民が本を楽しむために利用したのが貸本屋でした。
名古屋に店を構えた「大野屋惣八」、通称「大惣(だいそう)」も様々な書物を店に置いていましたが、他の店舗と違ったのは「所蔵した本を一切販売しない」ということ。
さらにあらゆる分野の書物を集めたため、蔵書はどんどん増え、最終的には図書館のような規模になっていたそうです。
後に名だたる文豪たちも通ったというこの「大惣」、惜しくも明治三十二年に店を閉めることになり、蔵書は国立国会図書館、京都大学などの図書館にて今も保存されているそうです。

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人工運河・堀川

人工運河・堀川

image名古屋の街を長く通る「堀川」は天然の河川ではなく、慶長15年(1610年)に開削されたものです。
名古屋城築城の資材を運ぶための水路とするのが目的で、城の完成後は名古屋の街へ物資を運搬する大切なパイプとなりました。
明治十年には技師の「黒川治愿」によりほぼ現在の堀川と同じ形に延伸されており、このとき開削された朝日橋から矢田川あたりを「黒川」と通称するそうです。堀川にかかる橋は七橋と称される五条橋、中橋、伝馬橋、納屋橋、日置橋、古渡橋、尾頭橋が最も古く、特に五条橋と伝馬橋は堀川の開削より古い年号が刻まれています。
これは清須の五条川に架かる橋を移築したためで、現在堀川にはレプリカが架けられ、本物の五条橋は名古屋城にて保管されています。

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雑多な賑わいの大須商店街

雑多な賑わいの大須商店街

image大須観音の門前町であり、ショッピングやグルメ、カルチャーなど日々賑やかに盛り上がっている大須商店街。 江戸時代には既に寄席や芝居小屋が並んでいたというこの界隈、明治時代には料理屋や、仏教の教義を講談のように語る「説教所」、遊郭までが隆盛を誇り、実に混沌とした賑わいをみせていたそうです。現代も人が多い商店街ですが、毎年10月に行われる「大須大道町人祭」では、さらに「ごった煮」の大賑わいとなります。市民の力で作られるこのお祭りは、大道芸においらん道中、ほとんど裸の男女が全身に金粉を塗って踊る金粉ショーなどいろいろな芸が間近で見られるのが魅力です。
サンバパレードや世界コスプレサミットなども開催される現代の雑多ぶりも、明治の頃の空気に負けていないのではないでしょうか?

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本当にあった!「名古屋県」

本当にあった!「名古屋県」

愛知県に縁のない方には「名古屋県」と誤解されることもある名古屋市。
しかし、実はこの名称、かつては本当に実在していたんです!
それは明治維新後の廃藩置県の際のこと。当時の「尾張国尾張藩」は「名古屋県」に、「三河国」と「知多郡」が「額田(ぬかた)県」に改定され、翌年「名古屋県」が「愛知県」と改められました。
さらに同年「愛知県」と「額田県」が統合され、現在の愛知になったのです。
とっても短い期間でしたが、実在していた名古屋県。
「名古屋は県じゃなくて市です!」と訂正する際に話してみると、面白いかもしれませんね。

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名古屋の祭りといえば、大迫力のからくり山車

名古屋の祭りといえば、大迫力のからくり山車

image名古屋では法被を着た人々が大勢で山車を曳いて街を練り歩き、山車の上ではからくり人形が踊りや劇を演じる山車祭りを見ることができます。日本に現存するからくり山車は、そのほとんどが尾張地方にあるということで、現代でも祭りになると実際の山車が曳きだされるのです。
からくり人形は美しい着物を着たものも多く、細かな所作で舞やからくり、芝居を披露します。山車祭りの源流は疫病から人々を守る天王社の祭礼で、神への畏れや感謝を現すためのものでした。
それが次第に人々が楽しめる華やかなものになっていき、現在の迫力ある山車祭りへとなっていったそうです。昔の人も見ていたであろう、本物の山車が集う光景を見られるのも名古屋の祭りの醍醐味です。

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初のカラー新聞は名古屋から

初のカラー新聞は名古屋から

注目のニュースを一面に大きくカラー写真で、という新聞も今となっては当たり前のもの。
墨一色が当たり前だった時代に、これを初めに行ったのは名古屋の中日新聞でした。終戦後の日本で、カラーテレビが普及していく中、新聞にも多色印刷を取り入れようとした苦労は並大抵ではなく、インクも輪転機も自社製作で、実際にカラーの新聞を刷ることができたのは昭和二十五年のことでした。
出来上がったカラー写真は見事な出来栄えで、国内で大変なニュースになったのはもちろん、当時世界一の印刷技術を持っていたアメリカからも技術を提供して欲しいと依頼されたほどだったそうです。

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清須商人が栄えた四間道の光景

清須商人が栄えた四間道の光景

image四間道(しけみち)とは、名古屋駅からすぐ近くという都心に残された、昔ながらの風景を残す街並保存地区のひとつ。
かつて堀川沿いで商人たちが活発に商業活動を行っていた土地であり、今も当時の土蔵や町屋が並んでいます。
現在は蔵を改装しておしゃれなレストランやカフェになっており、散歩とお茶と楽しむために訪れる観光スポットでもあります。
「四間道」の名称の由来は、防火のために道の幅を四間(約七m)と広くしていたため。
また、土蔵も外壁までを土壁で覆うという江戸時代の防火建築の様式で作られているそうです。名古屋駅の近くにこんな風景が残っているのも、ちょっと不思議な感じがしますね。

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お堀を走る電車

お堀を走る電車

名古屋城の周囲には、城を守るためのお堀が作られています。
ぐるりと外周を回ってお堀を見たことがある方もいると思いますが、実はかつてこの外堀を名鉄電車が走っていた時代がありました。
明治四十四年に開通した名鉄「外濠線」。名古屋城が建つ台地を掘って作られた外堀の底が当時の名鉄瀬戸線の線路とちょうどいい高さにあり、そのまま繋げることができたのです。
昭和五十三年、地下鉄がより深くに潜っていったことから外濠線は廃線となりますが、今も線路が走っていた痕跡は残されています。

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三英傑誕生の地

三英傑誕生の地

image名古屋といえば武将。近年では「おもてなし武将隊」もすっかり有名になり、戦国をテーマとしたイベントも盛況です。
中でもよく知られているのは「三英傑」に数えられる織田信長、豊臣秀吉、徳川家康ではないでしょうか。
名古屋では「名古屋まつり」で毎年この三人をモチーフとした「郷土英傑行列」が行われ、武将に扮する三人は公募で決められます。
織田信長は馬に乗って行進するため、役者も乗馬の技術が求められるとのこと。鼓笛隊やお囃子、山車、そして三英傑やその家臣、そして姫たちが続く華やかな行列は毎年大変な人気となっています。

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「名古屋めし」の定義

「名古屋めし」の定義

image味噌カツに味噌煮込みうどん、天むすにあんかけスパ……。
「名古屋めし」として有名な地元グルメの数々ですが、中には名古屋以外が発祥のものもあります。名古屋名物とされているため誤解されやすいのですが、「名古屋めし」とは「名古屋が発祥の食べ物」ではなく、他県から名古屋に入ってきて発展したもの、独自の進化を遂げたものも定義に含んでいるのです。
名古屋ならではのアレンジが利いた「名古屋めし」と、発祥の地の元祖の味。
調べて食べ比べてみると意外な発見があるかも!?

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開店祝いのお花

開店祝いのお花

image新しい店舗がオープンしたとき、お店の前に飾られる色とりどりのお祝いのお花。名古屋にはこのお花をお客さんにどんどん持ち帰ってもらって、早くなくなるほど縁起が良く、商売繁盛するという風習があります。
開店後あっという間に葉っぱだけになっている光景も珍しくなく、県外の方が見ると驚いてしまう光景かもしれません。ただし、お店によっては持ち帰りNGなところもありますので、よく確認してからいただくようにしましょう。

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